新井紀子さんの「数学は言葉」を読みました。
日常語に慣れている人が数学語に慣れるのは大変、というお話。
聖書につぐベストセラー、ユークリッドの「原論」にも言及されていました。
古代ギリシャで成立した数学語が現代にもつながっていること、日本語と数学語の相性の悪さ(すべて、存在の名詞への修飾の仕方など)、などなど。
高校数学から大学数学への架け橋ということで、「高校まで数学が好きだったけれど、大学で数学を嫌いになる人」を減らしたいという思いで書かれています。
私は、幸いにも、そこの移行はスムーズにいったと思います。
しかし、数学の世界にどっぷり浸かっていると、日常語までも数学語になっていることに気が付かなくなります。
数学語が通じると思って会話して、思わぬ失敗をする人、多いのではないでしょうか?私の経験では、
「Aなら、Bです」
「じゃあ、Aでないなら、Bでないのか?」
と理不尽に怒る人は、多いのではないかと思います。
新井先生の本にもある、ありがちな例としては、
「食後のお飲み物は、コーヒー、または、紅茶でございます」
「じゃあ、コーヒー、かつ、紅茶でお願いします」
は数学語としては許されますが、日常語としては許されません。
だからといって、
「食後のお飲み物は、コーヒー、紅茶の排他的論理和でございます」
と、日常語として数学語を使うと気持ち悪がられます。
しかも、
「食後のお飲み物は、コーヒー、紅茶、緑茶の排他的論理和でございます」
「じゃあ、コーヒー、かつ、紅茶、かつ、緑茶」
は成立してしまいます(笑)
※排他的論理和は、2つの集合で考えると、和集合から共通部分を除いたものですが・・・
(A∩(Bの補集合)) ∪ ((Aの補集合)∩B)
とも見ることができます。
すると、3つの集合で考えたら、A∩B∩C が含まれてしまいます。
一般には「奇数個の集合の共通部分」になるところ全体になります。