Mr.∅の数学と古美術

数学講師が語る数学と古美術

守・破・離は,学校での勉強にも当てはめるべきなのか?

あまり詳しくないですが,何かの道を究めるときの修行のステップが守・破・離ということのようです.

学校での勉強にもこのステップを当てはめるべきなんでしょうか?
学業は苦行なのでしょうか?
数学で言うと

守=知識技能,定石的な解法を学ぶ
破=思考・判断・表現力(その場での対応力)を磨く
離=自分で問題が作れるくらいまで

というイメージなのかな,と思っています.

このステップを踏むには,ぜんぶの知識技能などを身に付けてから,その場での対応力を磨くことになります.

しかし,これは,受験を念頭においた数学学習のイメージ(それだけが数学教育ではない!).

その道(単なる受験数学・・・)を究める必要なんてまったくないのに,守破離を当てはめるなんて,ちょっとバカバカしい気がしてきます.

学校での勉強は,自分の適性を見つけて,興味がある分野を探すキッカケになればよいだろうに.
究めたい分野について守破離を適用するのは良いことだと思いますし,ちゃんと究められたら,それが評価される多様な入試(総合型選抜=旧称:AO入試)があるわけです.

全員に,全科目での守破離を強要して,面白くもない苦行を強い,評価と課題によってがんじがらめにする.
そんな教育はどうなのかな,と思ってしまう出来事がありました.
まず「守」に入りたいと思わせろよ,と思うわけです.


知識技能や定石解法なんかを無理解で覚え込ませても,ほぼすべての生徒は,大学に合格したら,数か月後にはすべて忘れてしまうんですよ.
そんなこと(守)のために必死になるって,そんなに大事なことなんでしょうか?
守りたいのは,自分の「教えている」というアイデンティティーでは?

参考書丸暗記させるのが教育じゃないと思うのです.
習得すべき内容は最小限にして,自分なりに問題解決する経験をさせて,数学にドはまりした生徒がいたら,「守破離」に入れてあげたら良いのではないかと思うのです.

適度な知識量とその場での対応力で大学入試なんか乗り越えられるんです.
保険のためにたくさん覚えさせるから,逆効果なんです.

支配と抑圧の構造で生徒を奴隷にする教育をする奴隷的な先生たち.
それを正当化するのに守破離という言葉はすごく適しているな,と思いました.
そういう構造が学校にはたくさんあるのかも知れません.
(言葉が悪くて申し訳ないですが,うまく言い得ているな,と思い使っています)

日本の伝統を守る守破離.

そんなことに使わないで欲しいな.

雑な文章になってしまいました.
最後まで読んでくださった方がいらっしゃったら,ありがとうございます.

病んでいたりするのではなく,自分が進みたい方向はこうだな,というのが明確になっただけです.